「通学ベクトル」

「天気予報をお伝えします。明日の関東地方は低気圧の影響で、日中はぐずついた天気となり、ところによっては強い雨が降るでしょう。続いて各地の天気です―――」
私がお風呂から出て、バスタオルで髪を拭きながらリビングに来ると、テレビからそんな声が聞こえた。私は少し急ぎ足で、テレビの前に置いてあるソファへと向かう。
「ちぇっ、まーた雨だよ・・・」
私がソファに座ると同時に、隣でニュースの天気予報を見ていた弟が不機嫌な感じでそう言った。弟は雨が嫌いみたいだ。
・・・まあ弟に限らず普通は晴れてるほうがいいよね。
「だね。最近雨の日多いよねぇ・・・」
私はテレビ画面から目を逸らさないまま、弟にそう相づちをうった。テレビ画面には関東地方の地図が映し出され、全部に傘マークが広がっている。降水確率はどこも100パーセントだった。
「・・・何ニヤニヤしてんの?」
隣にいる弟から、ふいにそう言われて、私はドキッとした。
「えっ?そう?」
「うん。なんか雨なのがすごい嬉しいって感じ・・・。最近いつもそうだよね?」
「そ、そんなことないよ。雨は嫌い。くせ毛になるし・・・」
そんな風に取り繕う私を、弟は不思議なものでも見るような表情をしてから「まあ別にいいけど」と言って、テレビのほうへと向き直った。
ふう、危ない危ない。いや、別に危ないことはないんだけど・・・。そっかぁ・・・、私ニヤニヤしてたんだ・・・。
私は自分の頬をマッサージするように軽くつねった。




私がニヤニヤする理由。
それは弟が言ったとおり、雨が降ることが嬉しいからだった。でも弟に言った言葉も嘘ではない。雨は本当に好きじゃないし、理由も弟に言ったとおり、くせ毛になるからだ。私が嬉しいのは、正確には雨が降るからではなく、雨のおかげで、ある出来事が起こるからだ。
その出来事は通学中に起きる。私は毎日学校にはバスを使って通っているんだけど、雨が降ったときだけは私にとって、とっても大きな変化があるのだ。
最初に気づいたのはいつのことだっただろう・・・。
もうずいぶん前のことのように思えるし、ついこの間のことのような気もする。
その日も私はいつもの時間に、いつものバス停で、いつものバスに乗り込み、いつもの椅子に座って、いつもの様にぼんやりと外を眺めていた。そこから見える風景は少しずつ変わっていっているのかもしれないけど、私にはやっぱりいつもどおりの毎日だったと思う。バスもいつものように何度も停車と発車を繰り返し、その度にバスの中の人が入れ替わる。いつもと違う出来事が起きたのは、学校の最寄のバス停まで、後少しに迫ったときだった。
といっても、別に不思議な事が起きたとかそんな事はまったくなく、ただ一目で妊婦さんとわかる人がバスに乗り込んできたのだ。席は一杯になっているので、その妊婦さんは大きなおなかを重そうにしながらも、手すりに捕まり立っていた。
どうしようかな・・・。
私はその光景を見て、席を譲ろうかと思ったけど、なんだか躊躇して言葉に出来なかった。周りを見渡すと、他の人も私と同じ様に見えた。バスはそんな事をお構いなしにドアを閉め、出発しようとしている。
その時だった。
「あの・・・、よかったらどうぞ」
その言葉は決して大きな声ではなく、むしろ控えめというか遠慮がちな風に感じたけど、私にはその声がはっきりと聞こえた。たぶんバスに乗っている人達も同じだったと思う。なんでかと言うと、その言葉のする方にみんなの視線がいっせいに集まったように感じたからだ。私も同じ様にその言葉のほうへと視線を向けると、そこには私と同じ学校の制服を着た男の子がいた。でも分かるのはそれだけで、名前も学年も知らない人だった。その人は妊婦さんと少し会話をしてから、席を譲った。妊婦さんが座るのとほとんど同時にバスはゆっくりと動き出した。
ほっ、よかったぁ・・・。
私は自分が席を譲ることが出来なかったのが少し残念だったけど、それを見届けてひとまずそう安心した。バスはその後はいつもどおりで、また停車と発車を繰り返しながら、学校の最寄のバス停へと到着した。
私は降りる前に、ふと気になってなんとなくさっきの男の人のほうを見ると、その人は妊婦さんからお礼を言われていた。チラッとしか見えなかったけど、その人の照れくさそうに笑っている顔がとても印象的だった。
次の日から私はバスに乗ると、まずその男の人を探すようになっていた。別に一目惚れしたとか、そんなわけではない。
・・・と思う。
正直なところ、よくわからないのだ。でも男の人を探すようになったのは事実。そしてその人が乗っていないと、ガッカリするのも事実。私にわかるのはそれだけだった。
その人には毎日会えるわけではなかった。というか、会える日のほうが少なかった。それでも私はバスに乗ると、毎日その人を探した。そうしている内に、その人は雨の日だけ同じバスになる事が分かった。
普段は自転車通学・・・かな・・・?
私が見かけたときは、その人はいつも決まった席に座っている。そこで頬杖をついて窓の外を眺めている。何を見ているのかは分からないけど、その人はずっと窓の外を眺めている。その人は私が降りるまで、ずっと窓の外を見ているので、会話どころか1度も目が合った事すらない。
話しかけようと思えばいつでも話せる距離にその人はいる。でも私にはそれが出来なかった。
ただ、雨の日のバスで彼を見つめる事しかできなかった。




「愛理ー。早く寝なさい。明日も早いんでしょ?」
「はーい・・・。あっそうだ、お母さん、ビューラー借りるよー」
「それはいいけどちゃんと元の場所に戻してよ。いっつも使いっぱなしなんだから」
「ごめんごめん。ちゃんと戻すからさ」
私は「ぱぁ」と得意のカッパの真似でごまかして、ビューラーを手に自分の部屋へと行き、さっそく髪にあて始めた。翌日が雨の日はこれをしないと大変な事になってしまうのだ。
「よし、完璧」
私はそう言って鏡に笑顔を一つ映してから、ベッドに横になり目を閉じた。普段ならあっという間に寝てしまえるのに、翌日が雨の日はいつもなかなか眠れない。自然とあの人の顔が浮かんでくるからだ。ドキドキと高鳴る心臓、今まではその事が嬉しくもあったから、眠れないのは嫌じゃなかったけど最近は少し違う。
どうして私はなんにもできないんだろう?
いつからか私はそんな風に考えるようになっていた。なんにもできない、というよりは、なんにもしようとしていない、のほうが正しい。話がしたい、その思いは日が立つ毎に強くなっているのに、私はいつも見ているだけ。こうしていれば、いつか気づいてくれるんじゃないか?そんな漠然とした期待を持っているのかもしれない。もしかしたら、あの人のほうから話しかけてくれるかも。そんな都合のいい期待をしているのかもしれない。
期待、期待、期待・・・。どうして人間は自分じゃなくて、人に期待してしまうんだろうか?それともこれは私だけなんだろうか?
私はまどろんでいく意識の中で少しだけそんな事を考えた。




「うそうそっ!!もうこんな時間!?」
私は寝ぼけ眼で時計が示す時間を見て、思わずそう叫んでしまった。
さっき見たときはまだまだ余裕だったのに・・・。
時刻はいつもの起床時間を大幅に過ぎていた。
二度寝なんかしなきゃよかったよぅ・・・」
私は後悔の気持ちを込めてそう呟きつつも、ベッドから飛び起きて、大慌てでハブラシをして制服に着替える。部屋のカーテンを開けて窓の外を見ると、予報通り雨が降っていた。でもそれは今にも止んでしまいそうな、中途半端な雨だった。私は急いでリビングに行き、テレビをつける。画面にはタイミングよく天気予報が映しだされた。
「あれれっ!?50パーに変わってる!?昨日と全然違うじゃん!!」
私はそう言って、嫌な予感が的中した事にガックリと肩を落とした。
「・・・嘘つき」
私はそう呟いてから、もう一度窓の外を見る。これまでも、雨が降っても止みそうなときは、男の人がバスに乗っていない事は何度かあった。
今日は会えないかな・・・。
「ううん、きっと大丈夫」
私は自分の髪を触りながら、そう言い聞かせるように言って、家を出た。開いた傘に当たる雨はポツリポツリといった感じで、見た目どおり頼りない。私は落ち込みそうになる気分を盛り上げるために
「るてるてずうぼ」
と小さく声に出した。これは私のオリジナルのおまじない。「てるてるぼうず」を反対にしただけのなんとも単純なおまじないだ。しかも効果は今のところあった試しがない。それでも私はバス停に着くまで、どうか雨が止みませんように・・・、とそのおまじないを唱え続けた。




バス停に着いた私は傘をたたみ、カバンから鏡を取り出して髪型をチェックする。雨のせいでやっぱり少しくせ毛になってしまっていた。
もう・・・、雨はおまじないの効果もなく弱いままなのに・・・。まあいつもの事だけど・・・。
そんな事を考えてから、また自分ではないものに期待している事に気づき、私はフウッとため息をついた。
ほんとダメだなぁ私・・・、今度はおまじないに期待しちゃってるよ・・・。
私はもう一度ため息をついてから、腕時計で時間を見る。間もなくバスが来る時間になっていた。私は目を閉じて、あの人の事を考える。頭の中ですぐに顔が思い浮かべる事ができた。でもそれはいつも同じ表情から動かない。
私はまだあの人の事を何も知らない・・・。好きかどうかもよくわからない・・・。でも・・・、でも!!私はあの人の笑った顔がもう一度見てみたい!!よし、もう何かに期待するのはやめよう。
私がそう決心して目を開けると、遠くの方にバスがこちらに向かってやってくるのが見えた。バスが近づくにつれて、鼓動が早くなっていくのがわかった。
あの人はこのバスに乗っているだろうか?
私は鏡でもう一度髪形をチェックしてから、最後に鏡に向かって笑顔を映してみた。ぎこちない笑顔の自分がそこにいた。
でも・・・これが自分なんだ。
私が鏡をカバンへとしまうと同時にバスが到着した。私はフウッと大きく息を吐き出した。今度はため息ではなく深呼吸だ。
でも・・・やっぱり不安でしょうがないなぁ・・・。さっきはもう何かに期待しないって決めたけど・・・、最後にもう一回だけ・・・。
それから私は小さな声で
「るてるてずうぼ」
とおまじないを唱えた。
今度は「どうか会えますように」という願いを込めて・・・。